第1回レポート
小倉昌男“経営学”
学籍番号 :8602180
氏名 :野原 将史
公開日6月3日
はじめに
宅急便業界は、インターネットや電話などの通信販売での商品の配達、お歳暮や1人暮らしの家に荷物を送るなど、今や私たちの生活にはなくてはならないサービスになっている。今では翌日配達や時間帯お届けなどは、ほとんど標準のサービスとなるなど、便利なものとなり私たちの生活に必須となって成功を収めている。しかし、宅急便という事業が誕生した当初は、ネットワークの拡大や集荷、宅急便をやる上で弊害となる法律の存在など問題が多く苦労の毎日であった。では,なぜ数多くの問題を抱えながら小倉昌男氏はクロネコヤマトという宅急便事業を成功させることが出来たのかについて、クロネコヤマトの歴史と小倉氏の考え、そして私なりの意見も交えて成功のプロセスについて記述する。
過去の成功が妨げに?
この本の著者である小倉昌男の父親である小倉康臣は、トラック運送会社を設立し運転手に斬新的な制服の着用や近代的な経営といえる採用制度を取り入れ、昭和20年「日本一のトラック会社」となった。康臣は、渡欧で外国の経営の知識を得るなどして、次々と経営の合理化を図り成功を収めた。
時代が変わり終戦後10年、道路の改良、トラックの質の向上、それに輸送に対する需要が大幅に変化し、トラック業界は長距離輸送にも進出が始まっていた。しかし、康臣は、過去に成功を収めた関東一円のローカル路線に固執し長距離は鉄道の仕事だと信じていた。ようやく進出を決めた時には、他の同業者に市場を占領されていて、過去の成功にこだわったあまりに、ヤマトは出遅れてしまったのである。つまり、過去の成功が後になって大きな妨げっとなってしまったのである。
商業貨物輸送⇒個人配達
父である小倉康臣の引退に代わり社長となった小倉昌男に、大きな転換期が訪れた。遠距離路線市場の乗り遅れやその改善策としての多角化の道が、各事業ともに伸び悩みそして、儲かりの少ない大口貨物の獲得に走ったことが問題となり、トラック運送の収益悪化などヤマトの業績は悪化しヤマトは後がなくなった状態になった。
このような低迷の中、小倉昌男は個人宅配の市場に関心を持ち始める。この当時運輸業のほとんどが、商業用の貨物の配達が主流であり、個人宅配市場は事業として展開するのは難しいと思われていた。その理由に、物の集荷があげられる。これまでの商業輸送市場では製造工場から問屋、一次卸、二次…と流通業者を経て小売店に届けられる。毎月の量や時期そして目的地などは決まっているのである。(本文引用)しかしこれから始めようとしている個人宅配は需要が偶発的でありその宅配先も行ってみるまでわからない、こんな事では赤字は目に見えている。そのため個人宅配事業は郵便局の独占の状況であった。しかし、個人宅配の魅力を理解した小倉昌男は、商業輸送市場で追い込まれたヤマトを郵便局の独占状態の個人宅配市場で盛り返し図ろうと決心した。
デメリットはメリットに
個人宅配市場に他の運送業者が進出しないのには、数多くのデメリットがあったからである。個人宅配は、個人から個人への小荷物を対象とし、不特定多数の人が利用している。先ほど述べたようにその集荷は不確かなものであり、行き先もわからない。つまり偶発性の強い個人宅配では、採算が不確かであるという事が大きなデメリットであった。しかし、この裏には、需要範囲の拡大などメリットもあった。確かに、すぐにはネットワークが整っていないし、需要の少なく赤字は避けられないものである。が、しかしこのデメリットは全国にネットワークを拡大していくことで解決できると小倉は考えた、それだけでなく郵便局の独占状態を打破でき、大きな利益を得るメリットになる。他にも個人宅配の主な荷主である主婦はコストを値切ったりしない(本文引用)、など商売としては最適である。
強い決意
個人宅配という新しい市場で成功する計画は小倉昌男にはできていた。しかし、社の者は違っていた。当然赤字が出るだろうと思われる市場は今一層ヤマトにとって不利な状況にするだろうと思っているからである。社員や労働組員、役員など社の全員反対を受けてしまったのである。だが、小倉は考えを変えなかった。この新しい市場は、今は扱いにくいものであるが、将来的に見て絶対に成功するという事を熱心にそして細かく説明しつづけたのである。この熱意の結果背水の陣でヤマトは宅急便という名前で個人宅配事業に進出する事となった。
サービスの差別化
個人宅配の市場はライバルとなる業者が少ないとはいえ、郵便局の独占状態が続いたので、ヤマトは商品の売り出しにサービスの差別化を図る必要があった。
荷物の配達で最も消費者が望むものは何か。それは荷物が早く届く事である。このことを差別化に加えヤマトは「翌日配達」をセールスポイントとし、郵便小包と差別化を行なった。翌日配達を可能としたのが、航空会社がよく使う、ハブ・アンド・スポーク・システムを真似した輸送ネットワークである。各地人口の多いところにベースを作り、その周りにお客様の荷物集荷や営業拠点としてセンターを建てる、そして、さらに細かく必要な荷受を専門にやるデポや取扱店を置くのである。(本文引用)このネットワークを円滑に作動させる事で翌日配達を可能にしたのである。
次に配達範囲の拡大である。過疎化の進んだ農村地区でも配達が出来なければ、消費者の望みに応えたことにはならない。そこでヤマトは、センターの数を多く設ける事で過疎地や離島でもサービスを受けられるようにしたのである。この他にもこれまで1日1サイクルだった集配を2サイクルにするなど2便制で効率のUPを図ったり、在宅時配達などを行なった。ヤマトは、消費者の立場を優先に考え「サービスが先、利益は後」(本文引用)をモットーに利用者により良いサービスを提供する事で他者との差別化を図った。
全員経営
ヤマトが宅急便で成功を収める上で主な経営方法として「全員経営」というものがある。「全員経営」とは、経営の目的や目標を明確にしたうえで、仕事のやり方を細かく規定せずに社員に任せ、自分の仕事を責任をもって遂行してもらう事である。(本文引用)ヤマトの全員経営を説明する前に日本とアメリカの仕事というものについて記述する。日本人の会社に対する考え方はアメリカとは違っていて、アメリカ人が仕事は生活する上でやむを得ずやる苦役と考え、家庭生活とははっきり区別しているのに対し、日本人の多くは、仕事に生き甲斐を求め働くという事が生き甲斐と感じている人が多い。その上日本人は、会社への帰属意識も強く、愛社心も強い。だからこそヤマトの「全員経営」は、1人1人に満足感を与えるという面で日本で成功したのかもしれない。逆を言えばアメリカでは全員経営は成り立たないと私は思う。しかし、アメリカでは、人事制度は完全に能力重視になっており実力主義の制度が展開されているのに対して、日本の会社には、未だに年功序列の制度が残っており、能力のあるものよりも評価されてしまうところがある。これは、全員経営を行なうのに大きな障害になる。そこで、ヤマトの全員経営は、宅急便でお客様に最も近く中心的存在の「セールスドライバー(SD)」を主役にし、年功序列の排除と共に社内の「コミュニケーション」に力を入れた。SDは、「全員経営」の理念である自分の仕事に責任を持ち遂行するよう、現場でも自分で判断し、対処するようになっている。SDは、お客様に対応するという点からも考え、単なるドライバーでなくお客様に好かれる存在でなくてはならない。小倉がSDをサッカーで言うフォワードと例えたように、SDは、宅急便という市場において勝敗を握る重要な役割を持っている。そのため、現場でも全員経営の制度を利用し自発的に働く体制を構築し、お客様に誠意あるサービスを実施できるようにした。
全員経営は、各自のモチベーションが重要であり各自がそれを維持するには、情報が正確に伝わるコミュニケーションが大切である。しかし、実際は大きな企業になるほどコミュニケーションはとりづらく、お客様のクレームや苦情などの重要な情報がうまく伝わってこない。その対応策として、ヤマトは労働組合をうまく利用した、以前ヤマトが窮地に追い込まれた時に労働組員をリストラしなかった。このことにより、ヤマトにとっての労働組合は邪魔者でなく、信頼が築き上げられた運命共同体的存在になった。これによって隠蔽されやすい重要な情報は労働組合が機能することで解決された。
終わりに
経営者は、常に攻めの意識を忘れてはならないと思う。確かにリスクを負うのは社を運営していくのに重要な問題である。が、しかし、現状維持だけのような守りの姿勢では、時代のニーズにあわせた新商品の開発に積極的に取り組んだヤマトのような成功はないと思う。問題なのは、リスクそのものでなく、リスクの先に見える成功や結果であり、経営者には時代の流れを巧みに察知できる能力が必要とされる。ヤマトの、クール宅急便やスキー宅急便をはじめ常に消費者の要求を第一に考え、実施したことが成功に繋がったのだと思う。障害となっていた行政の「道路運送法」についてもヤマトは、攻めの姿勢を欠かさなかった。これにより法律は徐々に改正され、ヤマトは全国規模の翌日配達やさまざまなサービスの実施が可能になり、全国の消費者の需要を手に入れることができた。
ヤマトの歴史を見ても、やはり経営において攻めの姿勢なしに成功は無いと私は感じた。